その名は『騒(GAYA)』。
本書はオーナーであった騒恵美子による証言集だ。
当時出演したミュージシャンや常連客との交流を主軸に、店を開いた理由、そして自分は何者であったのかという自身への問いかけにつながっていく。
多くのミュージシャンが登場する中で、特に力を入れて描かれているのは、阿部薫、鈴木いづみと重なった、短くも強烈な時間についてだ。
阿部薫の伝説は語り尽くされている。
最近こそあまり見なくなったが、1960~70年代の日本ジャズ、アングラムーブメントについて書かれた本や雑誌のバックナンバーを読むと、阿部薫と鈴木いづみのエピソードはたびたび取り上げられている。傍若無人でキチガイじみた振る舞い。約束をすっぽかし、鈴木いづみを殴り、命を削ってサックスを吹き、音の伝説を残したままクスリであの世に逝ってしまったと。
だが、騒恵美子の目には、律儀で繊細な男と映っていたようだ。本当は人間が好きなのに人間嫌いを装い、繊細すぎるために世の中と上手く折り合っていけない男。
それがいつしか伝説のサックス奏者として祭り上げられ、本人も後戻りできなくなったのではないのかと、平易で直球の文章で描かれている。
長い時間心の底に沈殿していたものが一気に解放されたように、騒恵美子の文章は続いていく。
中でも特に印象的な部分を引用してみる。
「二人は音を残し、文章を残したことで、肉体をもって生きたあの時期に出会った人だけでなく、肉体が滅びた後、遅れてきた人の間でも生き続けられる永遠の命を持ってしまったということだ。」
この「持ってしまった」、という一文にすべてが集約されている。
音源がCD化されたことは私のような遅れてきたファンにとっては望ましいことではあるけれども、それは死によって伝説が完成されたことも証明している。
だが、こんなやるせないことがあるだろうか。
亡くなった人のことを、しかも知り合いでも何でもない人をどうこう言うのはよろしくない。
が、生きて楽器を吹き続けてこそ、その長い道程に意味があるのではないか。
その音楽が永遠の命を持つのは、ずっと後でよかったのではないか。
しかしこうも思う。レコードを通じてさえ伝わって来るあの研ぎ澄まされたアルトの音は、あの人にしか出せなかったのかもしれない、と。
本書にはミュージシャンや批評家が阿部薫について書いた文章とは違う側面が書かれており、記録としても大変貴重である。と同時に、本書は著者の遺作でもあったのだ。
騒恵美子も2011年10月に癌で亡くなった。
日本ジャズの動乱期を知る人が、また一人いなくなってしまった。無念である。
(敬称略)
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